20歳まで反抗期の私を変えた瞬間

皆さんこんにちは!イマちゃんです。

今回は、私が反抗期を終えた時の話です。

割と多くの方に訪れたであろう反抗期。

別になんでもないことに対してなぜか腹を立てた。

それのほとんどが両親にしか向かない。

両親が良かれと思ってやってくれたことに対しても

腹が立ち

両親が意見してくれたことに対しても

腹が立ち

挙げ句の果てには母が作ってくれたご飯にも

腹を立てる

果たして何がそんなにイライラしてしまったのかは

今となっては本当にわからない。

腹が立っているその時でさえ

きっとよくわかっていなかった。

でも、そんな自分の反抗期を覆すことにも

なんだか抵抗を感じていたのは事実。

心のどこかではきっと仲良く楽しくしたい

我が強い子供の頃にはよくあることなのかもしれない

でもイマちゃんはそんな日が20歳まで続いた。

ただ私の反抗期は、他とはほんの少しだけ違っていたかもしれない。

テレビなどでよく見かけるのは、とにかく暴言を吐きまくっている。

私の場合は、全く話さないという選択をしていた。

口から出る言葉は・・・「うん」

その一言だけ。

子供ながらに考えた結果がこれ。

「No」を使えば必ずと言っていいほど

さらに一言が飛んでくる。

でも「Yes」を使えば大体はそのまま終わる。

もちろん話は聞いていない笑

聞いていなくても「Yes」で乗り切り続けたのだ。

それもやく10年間も✋

想像してみると恐ろしい。

クラスメイトに毎日無視され続けているのとほぼ同じようなことだろう

それをやく10年も。

そんなの学校という小さな世界だと生きていけないほどの苦痛だろう。

それに耐え続け、それながらも

いつだって一番に息子の私の事を考えてくれていたのは事実。

私もそれが見えていなかったわけではない。

本当に痛いほど感じていた。

でも途中で引くことのできない私が常にいたのは間違いない。

私の母は、毎日365日朝、昼、晩の三食

欠かさず手料理を振る舞ってくれた。

しかも驚きなのは、私は社会に出るまでに

冷凍食品という存在を認知できていないほどに

全てが手作りだった。

野球漬けの毎日だった私にとって栄養のあるものをと

毎日考えてくれていた。

そして、私が毎日真っ黒に汚したユニホーム。

私がどうしてもきつくて寝てしまった時は

ひっそりと真っ白になるまで磨いてくれていた。

私の父は、私がすることなすことほとんど否定せずに

いつもひっそりとサポートだけしてくれた。

そして、試合は忙しい仕事の合間を縫って

どんなに遠くても見にきてくれていた。

実は、反抗期など訪れるはずがないほど

恵まれすぎた環境に私はいました。

それは、学生時代から実は知っていました。

他の家庭では、本当にありえない話。

子供だけに集中して捧げる人生✋

子供のいない私なら当たり前だろう!

そう思うことかもしれません。

でも、今ある生活は子供がいればほとんどが

できなくなってしまうだろう。

自分の毎日の半分を子供に捧げる。

当たり前にやらなければいけないという

使命感だけで続けられるようなことでは

絶対にないと思います。

自分でいうのはなんですが・・・

私は、本当に愛されていたんだなと今は正直に思えます

私がこんな風に言えるようになったのは

本当に極々最近のこと。

第一段階の変化は、間違いなく!

結婚式という人生の大イベントと

愛する妻とその両親の出会いだろう。

それについては、以前のブログの

一生の宝物にて記しました。

でも、まだその頃は反抗期の心をぬぐい切れてはいませんでした。

どこかに恥ずかしさがあり、

でも結婚式という大きなイベントを利用し

勇気を貸してもらい、両親にこれまでことに感謝を述べた。

まぁ10年もろくに会話なんてしたことありませんから

こんなにも息子が話してくれている!

これまで間違っていなかったんだ!

どこか緊張の糸が切れた両親の姿を垣間見ることができました。

それはもう当然のごとく大号泣。

それはそうだ。

例えるならば

いじめられっ子の耐え難い毎日が解放された瞬間なのだから

その日を境に私は、少しづつ少しづつ変わり始めました。

その間にいろんな人に出会い、感謝し

そしていろんな事を学びました。

そうして約2年。今では年に一度ほどの帰省の際の

両親とかわすお酒が楽しみでなりません。

これからが本当の恩返しの始まり。

最初の両親との楽しいお酒の場は

私にとって反抗期の終わりを告げる瞬間で

これからの恩返しのスタートラインなんだと思います。

それでは、今日はここまで・・・